So-net無料ブログ作成

『真の授業者をめざして』 [書籍]


真の授業者をめざして (1971年) (国土新書)

真の授業者をめざして (1971年) (国土新書)

  • 作者: 武田 常夫
  • 出版社/メーカー: 国土社
  • 発売日: 1971
  • メディア: 新書


鶴田清司さんは『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)において、「〈解釈〉的立場の典型例として武田常夫氏の授業」を考察しています。その武田さんの実践記録が本書です。

「自己の創造力で教材をとらえる」において、芭蕉の二つの俳句を取り上げています。まず、「道のべのむくげは馬に喰われけり」です。

 わたしはこの教材の解釈とイメージを、山本健吉氏の『芭蕉』からまなんだ。「このむくげはたぶん白い花であろう」という山本氏の推定が、わたしにその一時間の展開の角度を啓示し、そのイメージをみるみる鮮明に開化させたのであった。教材の核心やイメージを教師が生き生きと把握するということは、そのまま、実際の授業のイメージを描き出すことにも通じていた。わたしにとっての苦労は、教師がいかにして自己の創造力において教材をとらえるか、の一点にかかっていた。それさえ豊かであるならば、具体的な展開などという作業は、なんの雑作もないことなのであった。
 山本氏の、白い花、というむくげのイメージにはっと心を打たれたとき、わたしはすでに、「芭蕉は、その情景をどこで見ていたのか」という最初の発問を思いついていた。そして、そのとき、わたしはすでにその問いによってひきおこされる子どもたちの反応も、どこで教師の説明をいれるかというそのタイミングも、そしてどういうふうに子どもの思考をもりあげていくか、といった一時間の構想も、ほとんど出来上がっていたのである。
 馬に喰われたむくげの花を、芭蕉はいったいどこで見ていたのか。この問いは確実に子どもの想像力の核心をゆさぶるはずだ。子どもたちはさまざまに考え、発言し、討論するはずだ。その燃え上がった一瞬をとらえてわたしはいう。芭蕉は馬の上にいた。子どもたちは、あっとさけぶ。みるみる子どもたちのイメージはひろがっていく。わたしは授業をする前に、すでに子どもたちに勝った、と思った。

授業が「予想通り」に進んだため、武田さんは自信を深めます。ところが、次の「さみだれを集めてはやし最上川」については、正反対の授業になります。

 わたしは「作者は、どこでこの情景を見ていたのか」と、まったく前と同じ角度の発問で子どもに切りこんでいこうと考えていた。いろいろ出るだろうが、おそらく作者が舟でいま川を下っていると考えつく子はいないはずだと思った。「道のべ……」の句で、作者が馬にのっていたと考えつく子がいないのと同じように。
 授業はその通りに流れていった。もう舟の上で、という教師の説明を投入しなければ、授業は発展しないぎりぎりのところになっていた。ところが、どういうわけか、わたしはそれを口にするのが妙に気がひけてならなかった。それはまるで自分が絶対勝つにきまっているカードを持っているのに、そしらぬ顔をしてゲームをつづけているような、一種のうしろめたい気持だったのである。授業はクイズではないし、子どもは愚かな解答者ではない。しかし、ここまで来てしまった以上いまさらひき返すわけにはいかなかった。わたしは仕方なく、教師の知識を口にした。子どもは別に驚いた顔もせず、すんなりとうなずいた。「先生、それならそうと、はじめからいってくれればいいのに」といわれなかったのがせめてもの救いであった。いわれても仕方のない授業だったのである。

この二つの俳句の授業を取り上げた鶴田さんは、武田さんの「子どもとの出会い」を指摘しています。

 この体験から、武田氏は、教材研究や授業に対して反復を避け、常に新たな〈出会い〉を求めるという志向を強めていった。「授業というものは、前と同じことを同じようにくり返していたのでは、子どもたちはゆれ動かない」と述べる武田氏にとって、授業とは、まさに「子どもの精神とのたえざる出会い」なのであった。

死後、すでに30年以上過ぎた実践家から何を学べるか、武田さん自身による実践記録から学んでいきたいものです。

なお、本書は『真の授業者をめざして』(国土社〈現代教育101選〉6)としても刊行されています。

斎藤喜博氏との邂逅
 島小へのあこがれ
 島小への赴任―はるかに奥深い感動
 島小の先進たちの恐るべき力
 みずからを自立させる仕事の開始
 無数の体験の集積を経て
 漠然としたイメージをふりあおぎながら
 無意識のうちにある子どもへの蔑視
 批判を超える鮮明な事実の創造
 激しい飢渇感におそわれながら
真の授業者をめざして
 発見と創造の持続
 子どもに問いかけることばのいのち
 強烈な事実と主張の所有者
 授業者はすぐれた対話者、司会者である
 自己の創造力で教材をとらえる
 たえず高いものをめざし現状を否定していく精神
 子どもの精神を無限に開拓する授業者
 授業はたえざる追求、たえざる創造である
授業がすべてを明らかにする
 授業を明らかにした自負の虚妄性
 確乎とした主張とみずからへの激しい要求
 子どもが無限に教師に近づくとき
 教師が教師として存在する真の理由
 一個の作品として独立したいのちをもつ授業案
 ことばこそ教師の最大の武器
 この困難な作業——教材を読む
一時間の展開の煉獄の中で
 授業がその生命を獲得するとき
 教師の意識がほんものとなる契機
 問いのダイナミズム
 子どもの精神とのたえざる出合い
 島小最後の卒業式で
深く重い問い
 強さを創造できない弱さ
 否定すべき非教育的な側面とのたたかい
 過去の模倣・幻影との峻別
 教室に生きる教師のもっとも本質的な仕事
 高い質の文化・芸術・思想・人間の行為を子どもは求める
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『なぜ日本人は「ごんぎつね」に惹かれるのか』 [書籍]


なぜ日本人は「ごんぎつね」に惹かれるのか―小学校国語教科書の長寿作品を読み返す

なぜ日本人は「ごんぎつね」に惹かれるのか―小学校国語教科書の長寿作品を読み返す

  • 作者: 鶴田 清司
  • 出版社/メーカー: 明拓出版
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本


鶴田清司さんは自身のHP「国語授業論」のコーナーにおいて、本書の新刊紹介を次のように書いています。

 ベースになったのは『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)ですが、「他の童話と読み比べる」「教師の作品評価」「現代の子どもたちの反応」「親子読書のための童話」といった新しい視点も交えて、さらに分かりやすく面白く書き直しました。自分でもなかなかの出来栄えだと思っています。

本書の「新しい視点」の一つである「現代の子どもたちの反応」を見てみましょう。野田芳朗さんのクラスで子どもたちが書いた『「ごんぎつね」まとめの作文』が紹介されています。野田学級の子どもたち33人の作文は、原稿用紙12〜13枚平均、多い子は32枚という大作です。「もくじ」は全員共通で、次のようなものだったそうです。

 (1)はじめの感想
 (2)登場人物について
 (3)ごんの様子について
 (4)兵十の様子とごんのいたずら
 (5)おっかあの死
 (6)あなの中でごんが考えたこと
 (7)ごんのつぐない
 (8)四、五の場面について
 (9)かけよっていく兵十が考えたこと
(10)この物語の悲しさについて
(11)「ごんぎつね」を学習して
(12)スペシャル(選択テーマ)
   A ごんへ
   B 兵十へ
   C 新美南吉について
   D その後の「ごんぎつね」

このすべての項目について、鶴田さんは子どもたちの作文を紹介し、さらに作文と同じくらいの分量のコメントを書いています。全部で23ページ、全体の約1割にあたる分量です。この部分を読むだけでも、鶴田さんの子どもたちへの思い、「ごんぎつね」という作品に対する思いが伝わってきます。

はじめに—心の渇ききった時代だからこそ
序章 童話「ごんぎつね」(全文)
第1章 国民的な童話になった「ごんぎつね」
 1 大人も読んだ「ごんぎつね」―教科書教材としての歴史
 2 「ごんぎつね」が載った童話集―“ひっぱりだこ”の人気
 3 絵本になった「ごんぎつね」―その魅力を広く伝える
 4 新美南吉記念館と「ごんぎつね」―童話の雰囲気が漂うデザイン
第2章 日本人が「ごんぎつね」に惹かれる理由
 1 南吉文学の魅力―日本人を感動させる三つの要素
  (1)どこにでも見られる郷土像―自然描写の巧みさ
  (2)豊かな叙情性―心のふれあいという物語
  (3)少年心理の追求―「自伝的少年小説」の世界
 2 「ごんぎつね」の構成と文体の巧みさ―奥行きの深さを味わう
  (1)起承転結の構成―ドラマチックな展開
  (2)物語の視点―ごんの視点から兵十の視点へ
  (3)感動的な結末―物語における「悲哀」と「愛」
   4語り口の特徴―民話的な語り
   5伝承の物語―ごんが村人に受け入れられる話
 3 他の童話と読み比べる―浮かび上がってくるものは何か
  (1)宮澤賢治童話と読み比べる
  (2)グリム童話と読み比べる
  (3)イソップ童話と読み比べる
   4アンデルセン童話と読み比べる
 4 日本人の美意識について考える―死と向かい合う境地
  (1)滅びの美学に惹かれる日本人
  (2)絵本「葉っぱのフレディ」との接点
 5 今日の時代性と「ごんぎつね」―真の「やさしさ」とは何か
  (1)人間の疎外と孤独
  (2)「やさしさ」の心理
第3章 「ごんぎつね」はどう読まれているか
 1 現代の子どもと「ごんぎつね」―小学校四年生の作文
 2 教師たちの作品評価―「ごんぎつね」は圧倒的な支持率
第4章 「ごんぎつね」に隠された秘密
 1 南吉の分身としてのごんぎつね―恋人M子の存在
 (1)「ごん=南吉」という読み方
 (2)南吉の日記に見る熱い思いと冷めた思い
 (3)「デンデンムシノカナシミ」という童話
 2〈お城〉に象徴されるもの―封建時代の悲劇か?
 (1)悲劇の本当の原因
 (2)〈お城〉の意味するもの
 (3)まっすぐに読むこと―「きつねだから殺されたのだ」
 3 ごんぎつねの生き方―キーワードとしての〈穴〉や〈裏〉
 (1)日陰者としてのごん
 (2)思いの深まりと危険のジレンマ
 4「ごんぎつね」は誰が書いたのか―本文の問題その1
 (1)草稿「権狐」と「ごんぎつね」との違い
 (2)全集や教科書の本文はどうなっていたか
 5〈兵十はかけよってきました〉をめぐる謎―本文の問題その2
 (1)「かけよっていきました」に書きかえよ!?
 (2)作者の間違い?―子どもたちの発言から
 (3)ラストシーンをどう読むか
第5章 「ごんぎつね」は親子で読むのに最適な一冊
 1 最近の文学事情―親子読書にはどんな本が向いているか
 (1)すぐれた文学は時代や世代を超える
 (2)作品の長編化という問題
 2 読書への架け橋に―南吉のほかの作品も味わう
 (1)最近の親子関係と親子読書
 (2)おすすめの南吉作品
資料「権狐」(草稿)
参考文献(単行本)一覧
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『国語の授業が楽しくなる』 [書籍]


国語の授業が楽しくなる (教師修業 9)

国語の授業が楽しくなる (教師修業 9)

  • 作者: 向山 洋一
  • 出版社/メーカー: 明治図書
  • 発売日: 1986/01
  • メディア: 単行本


本書の「ごんぎつね『かけよってきました』を読む」において、向山洋一さんは次の授業プランを示しています。

 ごんが倒れて、かけよった兵十は、まずはじめに何を見たのですか。
 ノートに書きなさい。

 ここは簡単に答が出る。教科書の文章にもどらせればいいのだ。
 ここで、少し兵十の視線を分析させる。いろいろ問い方はある。私なら、次のように問う。

 兵十は見るところを次、次、次とかえました。
 どのようにかわったのか、簡単な図に書きなさい。

 兵十の視線は、三カ所に行く。
 A(家の中)、B(くり)、C(ごん)の順である。時間があれば「見る」「目につきました」「目を落としました」のちがいについて考えさせる。
 さらに視線が、遠い方から近い方に変化したこともとらえさせる。
 が、大切なのは、「家の中を見たとき」には、ごんのことは眼中になかったということなのである。だから「目を落としました」の表現がすごい。
 次に私は問う。

 兵十の考えが今までと変わったのは、A、B、Cのどの時ですか。
 話しあいなさい。

 これが、私の授業の大筋である。もしかすると「火なわじゅうを、バタリととり落としました」という行為についてふれるかもしれない。
 それは、「今までと考えの変わった兵十」が、さらにもう一歩変わったことを暗示している。が、これは読者がそれぞれうけとればいいのであって、深追いはしない。

かけよってきた兵十が、まず家の中を「見る」だけでなく、くりが「目につきました」、ごんに「目を落としました」という視線の移動を押さえているところは参考になります。西郷竹彦さんの『教師のための文芸学入門』(明治図書)、大森修さんの『国語科発問の定石化』(明治図書)を踏まえた上で、向山さん自身の授業プランを示したものと思われます。

上記の引用部分の最後に「深追いはしない」とあるのは、本書の「感動は教えられるか」という問題提起につながるのでしょう。何度読んでも、刺激的な提案です。

はしがき
Ⅰ 小学生の国語教室
 一 つまらぬことをやらぬから面白いことができる
  1 あたり前の言葉におきかえる指導
  2 しっかり教えるべき内容
  3 暗唱させた詩文
 二 ふるさとの木の葉の駅
  1 新卒教師の指導
  2 授業の覚書き
 三 文を書くには技術がいる
  1 文を書くからくり
  2 レトリック
  3 子どもは使いこなす
 四 しっかり読む、正しく書くを教えた上で
  1 私の小学校六年の作文
  2 私の中学校二年の作文
  3 良質な文を手本にする
 五 ごんぎつね「かけよってきました」を読む
  1 どこに目をつけるか
  2 学習指導書の検討
  3 私ならこう授業する
 六 教育技術法則化運動が始まる
  1 論文を書く力
  2 応募論文例
  3 ぜひ多くの方々の応募を
 七 「掛ける」の意味を追究する
  1 「かける」を授業する
  2 子どもの分析
  3 わずか一語の授業
 八 ついに説明文の授業を公開する
  1 伊藤経子先生への手紙
  2 論説文の指導
  3 教科書の文章の検討
 九 入門期の漢字指導
  1 法則化論文の特徴
  2 応募論文二例
  3 若き教師の成長
 一〇 分析批評(その1)出立
  1 井関義久氏との出会い
  2 それは調布大塚小学校から始まった
  3 気持ちのオンパレード
 一一 分析批評(その2)研究の仮説
  1 野口芳宏氏の『国語教室』
  2 調布大塚小学校研究紀要
  3 そこからの離陸
 一二 分析批評(その3)調布大塚小研究を越えて
  1 研究方法
  2 モチモチの木
  3 夕鶴
Ⅱ 集団思考を促す国語科の発問
 一 集団思考の系譜
  1 集団思考の萌芽…芦田恵之助
  2 斎藤喜博と集団思考
  3 村山俊太郎と集団思考
 二 飛び入り授業
  1 スイッチョの授業
  2 「スイッチョ」の授業記録
  3 七分間の飛び入り授業
 三 果てしなき追究
  1 東京—山口 授業研究往信
  2 集団思考を思考する
 四 国語科における発問の定石化
  1 事実を根拠にする
  2 いくつかの事実
  3 大切な諸点
Ⅲ 文学の授業は感動重視でよいか
 一 分析批評による文学の授業の見直し
  1 「終末の感動」論批判
  2 分析批評
  3 「やまなし」の実践
 二 論争の骨格—「感動は教えられるか」「何をこそ教えるべきか」
  1 文学の批評は科学である
  2 感動の強要を止めよ
  3 何をこそ教えるのか
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『国語科発問の定石化』 [書籍]


国語科発問の定石化 (授業への挑戦 (2))

国語科発問の定石化 (授業への挑戦 (2))

  • 作者: 大森 修
  • 出版社/メーカー: 明治図書
  • 発売日: 1985/06
  • メディア: 単行本


著者の大森修さんは「西郷竹彦氏の文芸理論、とりわけ視点論に基づく氏の教材解釈は、個々の教材に即して、どのような発問をすべきかについて、具体的に教えてくれる」と言います。けれども、「文芸研方式による『文芸の授業』を追試する気になれない」と言います。その理由として、文芸研の実践記録を検討した上で、「〈同化体験〉〈異化体験〉〈共体験〉を文芸研が重視しているから」と言います。さらに、大森さん自身の実践を提案し、大森学級の八向志保さんが書いた作文を次のように紹介しています。

 六の場面は、兵十の目から見て書かれているのに、どうして「兵十はかけよってきました。」のところだけごんの目で書かれているか。

 この題(問題)を作るきっかけとなった人は、小山さんである。どういうことできっかけになったかというと、先生が、紙に書いてある何人かの人の意見を、二つに分けた。それをどういう理由で、二つに分けたかということを大森先生が聞いたのである。そして、はじめに、小山さんがかけられて、小山さんは、
「私は、兵十の目から見ている文と、ごんの目から見ている文にわけてあると考えます」と、言ったのだ(兵十の目から見ているということは、「うってしまった」というところから分かり、ごんの目から見ているということは、「うたれた」というところから分かる)。
 その意見から、兵十から見ている方が正しいか、ごんの目から見ている方が正しいかとなって、ついには、兵十の目から見ている方が正しいとなった。けれども、「兵十はかけよってきました」のところは、ごんの目から見て書いてあるのだが、それはどういうことかという順序で進んできた。
 私は、「六の場面は兵十の目から見て書かれているのに、なぜ、『兵十はかけよってきました』のところだけ、ごんの目で書かれているか」ということを、次のように考える。というのは、「兵十はかけよってきました」の文からいえることは、兵十の目から見て言える文ではなく、ごんの目から見ていえることである。
 となると、六の場面は、兵十の目から本当は見ているのに、なぜ、ごんの目から見ているのかという疑問が出てくる。これは、どういうことか?
 私は、次のように考えた。
 この六の場面では、兵十の目から見ているのに、ごんの目から見ている「兵十はかけよってきました」のところがあるとは、おかしいのである。それを、私は作者のまちがいではないかと考える。というのは、本当は、六の場面は兵十の目から見ているのに、ごんの目から見ている文が入っているとは、大きなまちがいだからである。だから、正しく直すと、「兵十は、かけよっていきました」となると考える。でも、私は作者ではない。だから、もしかして、作者は、そこだけごんの目から見ている方が、ごんがまだ生きているというようなことが、読者によく分かるのではないかと考え、そこだけごんから見ている方に話者をうつす。となれば、それで正しいと考える。
 これと同じ問題を、学者たちは気づいていた。その学者の中の西郷先生という人の解釈を印刷してもらって、読んでみると、そこには、次のようなことが書いてあった。
「この場面は(六の場面)、兵十の視覚から構成されているのです。したがって、くる兵十のすがたを見ているところではありません。読者も兵十とともに、かけよっていくところなのです。文芸学の立場に立って考えますと、ここのところは、兵十の視点からのところですから、つぎのようにすべきです。“兵十はかけよっていきました”あるいは“兵十は、かけよりました”とすべきです。もし、ごんの視覚に、きりかえたとすれば、“兵十は”でなく、“兵十がかけよってきました”となるでしょう。ここのところは、どう考えても、“兵十はかけよっていきました。兵十が家の中を見ると”という文になることが、文学理論の立場からは、すっきりするのです。この機会に、ここの文章は、“兵十はかけよっていきました”とすることを、わたしは提案いたします」
 私は、西郷先生の意見にさんせいである。というのは、西郷先生も、私と同じように正しくすると、「兵十は、かけよっていきました」となることをいっているからである。それに、六の場面は、兵十の目から構成されているから(ここには、書いていないが)、「文芸学的には大きな問題がある」と、書かれているからである。
 このようなところは、私と同じ意見なので、西郷先生にさんせいである。でも、私の意見には、たりないところがあった。そこは、「兵十はかけよっていきました」の文以外、ほかにも書き方があったことだ。それは、「兵十はかけよりました」という文である。これは、私も考えつかなかった。

作文の中にも書かれているように、大森さんは子どもたちに西郷さんの文献『西郷竹彦文芸教育著作集 第2巻 文芸学入門』(明治図書)(初出は『教師のための文芸学入門』明治図書)を提示しています。大森さんが文芸研の視点論に学んでいることが、ここにも現れています。けれども、発問については「兵十は、かけよってきましたね。何を考えて、どこをみたのでしょうか」のように、独自の考えを展開しています。後に、文芸研と法則化で起きた論争の一因が、本書にもうかがえます。

また、先の八向さんの作文については、鶴田清司さんも『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)の中で取り上げ、「小学生とは思えないほどの鋭い〈分析〉」と評価しています。その他にも、多くの先行文献を整理しながら「定稿「ごん狐」の問題点—〈兵十はかけよって来ました〉をどう見るか—」について考察しています。

「ごんぎつね」以外にも、多くの問題提起を行った、大森さんの記念碑的な本と言えるでしょう。

はしがき
Ⅰ 国語の授業どこが問題か
 一 気持ち主義との訣別
  1 思い入れ読みを排す
  2 文章を検討する
  3 検討の方法を身に付ける
 二 文芸研の授業の検討
  1 「視点論」に学ぷ
  2 なぜ「ごんぎつね」か
  3 「同化」「異化」「共体験」
  4 文芸研の授業の検討
  5 私の「ごんぎつね」の授業
  6 文芸研に望む
 三 桜井済美氏の授業の検討
  1 「気持ち主義」を排す
  2 文章の検討を促す
Ⅱ 文章を検討させる授業
 一 文章を検討させる方法
  1 目の位置と話者
  2 話者と作者の区別
  3 登場人物と話者の重なり
  4 文章の検討を促す発問
 二 「め」の授業
  1 授業の概略
  2 授業記録と子どものレポート
  3 いえること
 三 「だから わるい」(オセーエワ)の授業
  1 教材
  2 発問と授業記録
  3 子どもの作文
 四 「春」(坂本遼)の授業
 五 「小さなみなとの町」(木下夕爾)の授業
 六 短歌・俳句の授業
  1 石岡実践との出会い
  2 「をりとりて……」(飯田蛇筋)の授業
  3 「ふるさとの準…‥」(石川啄木)の授業
  4 「山かげは日ぐれ……」(若山牧水)の授業
  5 「石ばしる垂水の……」(志貴皇子)の授業
 七 「スイミー」(レオ=レオニ)の授業
  1 「発問課題」の検討
  2 「スイミー」の授業
 八 子どものレポート
Ⅲ 絶えざる追求過程への参加
 一 発問定石化の提唱
  1 無内容な「基本(的)発問」
  2 「春」の授業実践
  3 絶えざる追求過程への参加
 二 すぐれた実践を追試する
  1 「共有財産化」の提唱
  2 実践の「私物化」
  3 「追試」も実践
  4 他へ分ち伝える
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『教師のための文芸学入門』 [書籍]


教師のための文芸学入門 (1968年) (明治図書新書)

教師のための文芸学入門 (1968年) (明治図書新書)

  • 作者: 西郷 竹彦
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1968
  • メディア: 新書


鶴田清司さんは『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)の中で「西郷竹彦氏による「視点」の〈分析〉」を取り上げています。「文学教育の領域で『視点』を問題にしたのは、西郷竹彦氏が最初であ」り、「とりわけ、六の場面における『視角の転換』がこの作品の読みにきわめて重大な影響を及ぼすという主張は、『視点論』による最大の成果であり、いまなお新鮮で有効な指摘」と述べています。

この「視角の転換」に当たる部分を本書から引用してみましょう。

 ごんの視点のままだと、私たちには、兵十の、〈こないだ、うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな〉。〈ようし〉というはげしいいかりと、にくしみの心が、じがに見えません。
 しかし、ここで、兵十の視角にきりかわっているために、ああなるほど、兵十はあんなにまでおこっているんだな。とすれば、「ドン」とうちました、という兵十の行動が、わかる気がする。自分が兵十の立場にたち、兵十の身になれば、それも無理ない、しかたないことだったんだな、とわかる。
 読者は、兵十の気持ち、身になっても見ることができるということなのです。ごんの立場だけで見ないということなのです。作者は、兵十の身になってもらいたいと思ったわけでしょう。
 ごんの視角のままで描かれると、読者はごんの悲しさをわかって悲しむだけに、ただそれだけになってしまう。兵十のしわざをうらみ、兵十を「悪者」にしてしまうでしょう。
 ごんがかわいそうであればあるだけ、兵十をうらみ、にくむ心になってくるのではないでしょうか。「兵十よ、おまえは、なんということをしたのだ」。「兵十よ、おまえはなぜごんを殺した」というように、兵十を指さし、兵十をなじり、兵十をさばくことになるでしょう。
 したがって、この物語は、兵十のあやまりのために、ごんが殺されてしまったという、単純な人殺しの悲劇でおわってしまう。殺された側だけの悲劇でおわるでしょう。でも、私たちは、(28)を兵十の視角にたって読んでくると、殺された方もかわいそうだけど、殺すことはなかった相手を殺してしまった兵十もあわれになってくるはずです。
 〈あのごんぎつねめ〉と、にくんでいたその相手が、自分にいつもやさしい心をよせてくれていた人物であったと知った、兵十のおどろきと深いなげきが、わがことのようにわかるのです。
 おそらく兵十は、一生、この自分のあやまちをくやみ、なげくでしょう。自分の手にかかって死んでいったごんのことを悲しむことでしょう。この物語は、ごんの悲劇であるだけでなく、兵十その人の悲劇でもあるのです。

「視角の転換の意味するもの」として、ごんと兵十、両者の「悲劇」の物語であるという西郷さんの読みは、確かに説得的です。。

ところで、引用文中の(28)とは、次の場面です。

 そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と、きつねが家の中へはいったではありませんか。こないだ、うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな。
「ようし。」
 兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火なわ銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近よって、いま戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ぱたりと、たおれました。
 兵十はかけよってきました。家の中を見ると、土間にくりが、かためておいてあるのが目につきました。
「おや。」
 と、兵十はびっくりして、ごんに目をおとしました。
「ごん、おまえだったのか。いつも、くりをくれたのは。」
 ごんは、ぐったり目をつぶったままうなずきました。

つまり、西郷さんは「ごんぎつね」を(1)〜(29)に分けて、各部分について詳細な解説を加えているわけです。一つの文学作品から、実に多くを学べることがよく分かります。文芸学・文学について考えさせる1冊です。

なお、本書は『西郷竹彦文芸教育著作集 第2巻 文芸学入門』(明治図書)、『西郷竹彦文芸・教育全集 第13巻 文芸学入門』(恒文社)にも所収されています。

1 文芸の科学—文芸学とは
 文芸の科学とジャンル
 形象と表象
 形象の相関性
 視点と視角
2 文章の表現と絵画形象
 絵の遠近法
 〈内の目〉と〈外の目〉
 視点人物と対象人物
 筋—形象相関の展開
3 実験授業・文芸の科学—新美南吉「ごんぎつね」
 〈とおしよみ〉共体験の段階
 〈まとめよみ〉思想化・典型化の段階
 「文芸の科学」の授業を受けて
 「権狐」—『赤い鳥』に投ず
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『「大造じいさんとガン」の〈解釈〉と〈分析〉』 [書籍]


「大造じいさんとガン」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

「大造じいさんとガン」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

  • 作者: 鶴田 清司
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1997/06
  • メディア: 単行本


以下、「まえがき」の冒頭部分です。

 私はこれまで『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)、『文学教材で何を教えるか〜文学教育の新しい流れ〜』(学事出版)、『国語教材研究の革新』(明治図書)という一連の著作の中で、〈解釈〉と〈分析〉という二つの方法を提案してきた。それは広い意味では認識の方法(ものの見方・考え方・わかり方)である。そこには、文学をどのように考えるか、文学の読みをどのように考えるか、文学の授業をどのように見るかといった根源的な問題から、一つの作品をどのように理解するかという実際的な問題に至るまで多様な問題が含まれている。
 しかし、私はその範囲を限定して、主に教材研究の方法というレベルで〈解釈〉と〈分析〉について論じてきた。国語の授業をどう組み立てるかというとき、何よりも教師がその教材をどう読むかということが重要になってくるからである。こうして〈教材解釈〉と〈教材分析〉という二つの概念が設定されたのである。

〈教材解釈〉と〈教材分析〉については、次のように定義されています。

 〈教材解釈〉……主観的・個人的な生活経験の中で形成されてきた暗黙的な〈前理解〉に基づいて行われる理解(読み)の方法。自分自身の知識・感覚・感情・価値観・道徳・興味・関心・問題意識などを総動員しつつ、生身の人間として教材と〈対話〉することによって新しい意味を発見していくという開放的(出会いによって読者の地平が広がる)・一回的(その時かぎりの)・歴史的な(その時代・時期に固有の)読み。〈前理解〉の変化・更新によって読者自身の新しい自己理解も得られる。
 〈教材分析〉……客観的・科学的に確立された公的・明示的な規準(分析コード)に依拠して行われる理解の方法。文章(教材)を分析するための武器・道具(ものさし)を使って、それを対象に適用していくことによって新しい意味を発見していくという外挿的(外から枠をはめる)・普遍的(いつでも使える)・非−歴史的な(いつの時代にも変わらない)読み。〈分析コード〉によって対象を演繹的に説明するため、それが変化・更新することはほとんどない。
 平たく言えば、〈解釈〉とは個人の生活経験に基づく読み方であり、〈分析〉とは科学的なものさしに基づく読み方である。

このような前提を踏まえて、鶴田さんは「大造じいさんとガン」の教材研究を進めています。

たとえば、ある子どもの感想として示され、宇佐美寛さんも同意した「大造じいさんはずるい」という〈解釈〉に対して、「猟銃を使って戦うことの問題」を次のように整理しています。

 私たちは、この「大造じいさんはずるい」という発言をどう見たらよいのだろうか。結論から先に言うと、「ずるい」という〈解釈〉はやや短絡的・表面的である。以下、具体的に論証することにしよう。
 まず、その子が一番言いたいのは「ふつうの生活をしている丸腰のガンを銃で撃つことはフェアではない」ということであろう。では、「ふつうの生活」とは何か? ここで「ふつうの生活」の内実が問われてくる。確かに雁の群が沼地で餌をあさるのは「ふつうの生活」である。しかし、よく考えれば、〈大造じいさん〉が鉄砲を使って狩猟をすることも「ふつうの生活」である。猟師が鉄砲を使わずに素手で獲物を捕まえるということの方がよほど不自然である。そんなことでは狩人として生活していけないはずである。直接・間接の差はあれ、「どちらもたべたい食べ物をあらそって、そのためにちえや力くらべをする」ことである。つまり、〈大造じいさん〉にとっては雁を撃つことが「食べ物」を得るための手段であり、それが漁師として生計を立てる唯一の道である。ここには「ずるさ」とか「卑怯」といった人間的な感情が入り込む余地はない。そうしないと生きていけない厳しい現実があるのだ。「銃を持つ」ことは狩人としての証(アイデンティティー)であり、「銃を使うこと」は狩人の宿命でもある(宮沢賢治「なめとこ山の熊」の中の「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへをも射たなけぁならねぇ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに漁師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならこれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」という〈小十郎〉の台詞が思い起こされる)。

一方、〈分析〉については、「主役と対役」に関わって、「主人公は〈大造じいさん〉か〈残雪〉か—」という論争に対して、西郷竹彦さんの見解をもとに、次のように述べています。

 この見解は非常に興味深い。「大造じいさんとガン」でずっと繰り返されてきた主人公問題(論争)に決着をつけることができるからである。つまり、「子どもにとっての主人公」として〈残雪〉が選ばれることも、「教師にとっての主人公」として〈大造じいさん〉が選ばれることも当然の理なのである。どの人物の中に自己を見出すか、そして「なぜほかならぬその人物が私にとって主人公であるのか」を考えるということが重要なのである。〈残雪〉を主人公とする子どもは、かく勇敢でありたい、かく仲間を大事にしたいという自分の理想像をそこに見出しているわけだし、〈大造じいさん〉を主人公とする教師は、素晴らしいものに素直に感動して認識を改めていく姿や仕事に対する誇りと自負を失わない姿に自分を重ねようとしているわけである。いずれも「人物の身の上をそれこそ身につまされて感ずる」という体験である。
 こう見てくると、〈大造じいさん〉と〈残雪〉のどちらが主人公かということを二者択一的に決定することには無理があるようである。むしろどちらも「中心人物」であるとして、その先は個人の好みに応じて主人公を決めるという形にするのがよいだろう。これが最も現実的な処理の仕方であると言える。
 しかし、だからと言って、授業において「主人公は誰か」あるいは「どちらが主人公か」という対立・論争が「非生産的なナンセンスなこと」になるとは限らない。寺崎賢一氏や浜上馨氏の「分析批評」では、「主役」と「対役」というコード(科学的・客観的な規準)を使って作品を分析し、それに基づいて討論・論争を行い、評論文を書くという授業過程をとっている。これが作品の〈解釈〉を促進したり、授業を活性化したり、論理的な思考力や表現技術を鍛えたりすることになるからである。

「大造じいさんとガン」の登場人物に限定して〈解釈〉と〈分析〉を見てみましたが、いずれも大いに納得できます。「個人の生活経験」と「科学的なものさし」の両面から、教材研究を進めていきたいものです。

まえがき
Ⅰ 椋鳩十作品の特質
 一 動物児童文学の巨匠
  1 略歴
  2 動物児童文学の特徴
 二 椋文学のテーマ
  1 山窩小説と動物児童文学
  2 愛情と生命の賛歌
  3 椋文学における不易流行
 三 文体の特徴
  1 すぐれた文体効果
  2 描写の手法
  3 文体上の問題点
Ⅱ 「大造爺さんと雁」の教材研究史における問題
 一 教科書本文をめぐる問題
  1 「大造爺さんと雁」の二つの本文
  2 常体と敬体の問題
  3 前書きの問題
  4 まとめ—二種類の本文をともに生かす道—
 二 作品の主題をめぐる問題
  1 「動物と人間の心の交流」をめぐって
  2 「自負と自負の世界」をめぐって
  3 「大造爺さんの自己変容」をめぐって
  4 「人間と自然との共存・共生」をめぐって
 三 作品の評価をめぐる問題
  1 「武士道精神につながる弱さ」という批判をめぐって
  2 「感傷的」「美文調」という批判をめぐって
Ⅲ 〈解釈〉と〈分析〉とは何か
 一 〈解釈〉と〈分析〉の概要
 二 〈解釈〉と〈分析〉の実際
Ⅳ 「大造じいさんとガン」の〈解釈〉
 一 題材についての〈前理解〉
  1 狩人とハンターのちがい
  2 ガンとハヤブサのちがい
  3 時代的な制約
 二 「教材の核」をめぐる〈解釈〉
  1 「教材の核」とは何か
  2 〈タニシを五俵ばかり集めておきました〉の〈解釈〉
  3 〈ガンがどんぶりからえを食べている〉の〈解釈〉
  4 〈残雪は、むねの辺りをくれないにそめて、ぐったりとしていました〉の〈解釈〉
 三 武田常夫氏の授業における〈解釈〉
  1 〈ただの鳥に対しているような気がしませんでした〉の〈解釈〉
  2 〈おりのふたをいっぱいに開けてやりました〉の〈解釈〉
 四 作品との対話—〈大造じいさん〉の行為をめぐるさまざまな問いかけ—
  1 〈大造じいさん〉は「甘い」か—猟銃を下ろしたことの問題—
  2 〈大造じいさん〉は「ずるい」か—猟銃を使って戦うことの問題—
Ⅴ 「大造じいさんとガン」の〈分析〉
 一 「視点」の〈分析〉
  1 「西郷文芸学」における「視点」の〈分析〉
  2 「分析批評」の授業における「視点」論争—「三人称限定視点」か「三人称全知視点」か—
  3 〈残雪〉の「視点」の問題
 二 「対比」の〈分析〉
  1 人物関係の対比
  2 主役と対役—主人公は〈大造じいさん〉か〈残雪〉か—
  3 イメージの対比
 三 「反復表現」の〈分析〉
  1 主要語句
  2 事件の反復
  3 畳語的用法
 四 「構成」の〈分析〉
  1 全体構成
  2 クライマックス
 五 「語り口」の〈分析〉
  1 漢語
  2 文末表現
  3 文語調
 六 「イメージ」の〈分析〉
  1 イメージ語
  2 色彩語
  3 比喩
  4 オノマトペ
  5 誇張法
  6 象徴
 七 「省略」の〈分析〉
  1 レトリックとしての「省略」
  2 情報カット・場面カット
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『「スイミー」の〈解釈〉と〈分析〉』 [書籍]


「スイミー」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

「スイミー」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

  • 作者: 鶴田 清司
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1995/03
  • メディア: 単行本


以下、「まえがき」の冒頭部分です。

 私はこれまで『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)、『文学教材で何を教えるか〜文学教育の新しい流れ〜』(学事出版)、『国語教材研究の革新』(明治図書)という一連の著作の中で、〈解釈〉と〈分析〉という二つの方法を提案してきた。それは広い意味では認識の方法(ものの見方・考え方・わかり方)である。そこには、文学をどのように考えるか、文学の読みをどのように考えるか、文学の授業をどのように見るかといった根源的な問題から、一つの作品をどのように理解するかという実際的な問題に至るまで多様な問題が含まれている。
 しかし、私はその範囲を限定して、主に教材研究の方法というレベルで〈解釈〉と〈分析〉について論じてきた。国語の授業をどう組み立てるかというとき、何よりも教師がその教材をどう読むかということが重要になってくるからである。こうして〈教材解釈〉と〈教材分析〉という二つの概念が設定されたのである。

〈教材解釈〉と〈教材分析〉については、次のように定義されています。

 〈教材解釈〉……主観的・個人的な生活経験の中で形成されてきた暗黙的な〈前理解〉に基づいて行われる理解(読み)の方法。自分自身の知識・感覚・感情・価値観・道徳・興味・関心・問題意識などを総動員しつつ、生身の人間として教材と〈対話〉することによって新しい意味を発見していくという開放的(出会いによって読者の地平が広がる)・一回的(その時かぎりの)・歴史的な(その時代・時期に固有の)読み。〈前理解〉の変化・更新によって読者自身の新しい自己理解も得られる。
 〈教材分析〉……客観的・科学的に確立された公的・明示的な規準(分析コード)に依拠して行われる理解の方法。文章(教材)を分析するための武器・道具(ものさし)を使って、それを対象に適用していくことによって新しい意味を発見していくという外挿的(外から枠をはめる)・普遍的(いつでも使える)・非−歴史的な(いつの時代にも変わらない)読み。〈分析コード〉によって対象を演繹的に説明するため、それが変化・更新することはほとんどない。
 平たく言えば、〈解釈〉とは個人の生活経験に基づく読み方であり、〈分析〉とは科学的なものさしに基づく読み方である。

このような前提を踏まえて、鶴田さんは「スイミー」の教材研究を進めています。

たとえば、次の場面の〈解釈〉についてです。

 けれど、海には、すばらしいものがいっぱいあった。おもしろいものを見るたびに、スイミーは、だんだん元気をとりもどした。

この場面の〈解釈〉について、古作美津恵さんの「赤は点が入るたびに元気をとり戻しました。」という運動会の「たとえばなし」が紹介されています。その上で、鶴田さんは「運動会は本来、子どもにとって楽しい場」「深刻で絶望的な心境になるということは考えられない」「もっと他に適切な『たとえばなし』があったのではないだろうか」と批判しています。そして、鶴田さんは次の代案を示しています。

 みんなが家で動物を飼っていたとしよう。犬でも小鳥でも何でもいいけど、とても大切に可愛いがっていたペットがいた。でも、急に病気で死んでしまった。みんなは悲しくて悲しくて、どうしてもそれを忘れることができない。気持ちが落ち込んでしまった。あるとき、お父さんがおもしろいテレビゲームを買ってきてくれた。それで遊んでいるうちに、だんだん悲しいことを忘れていった。ときどき思い出すことがあるけれど、ゲームをするたびに忘れてしまう。そして、もう思い出して悲しむことがなくなった。元気をとり戻していったんだ。〈スイミー〉の気持ちはそれと同じかもしれないね。

 こうした「たとえばなし」によって、〈スイミー〉が元気をとり戻すには相当の時間が必要だったこと、広い海には心を慰めてくれるような〈すばらしいもの〉〈おもしろいもの〉が〈いっぱい〉あったことが自分のことのように実感できるだろう。〈スイミー〉がそれほどの絶望的な状況に陥ったからこそ、それを乗り越えて最後には集団のリーダーとして活躍したという事実が輝いてくるのである。また、そうした海での数々の美的体験が兄弟たちを遊びに誘ったことや大きな魚を追い出そうとしたことの基底になっていることも認識できるだろう。〈おもしろいものを見るたびに〉という表現は、こうした点で「教材の核」と言えるのだろう。

一方、〈分析〉については、次の「直喩」が示されています。

〈にじ色のゼリーのようなくらげ〉
〈水中ブルドーザーみたいないせえび〉
〈ドロップみたいな岩〉
〈風にゆれるもも色のやしの木みたいないそぎんちゃく〉

これらの直喩による表現効果を指摘しながら、次のように〈分析〉をまとめています。

 ここであげてきた直喩は、いずれも幻想的で美しく楽しく明るい海中の様子を描いていることは言うまでもない。が、西郷竹彦氏も指摘するように、「イメージのひびきあい(形象の相関性)」という点から見ると、そこには〈スイミー〉の人物形象も表現されている。読者は、だんだん元気を取り戻していく主人公の心の動きをリアルに理解することができる。暗く沈みこんだ状態のままではこのような〈見え〉にはならないはずである。「好奇心旺盛で、ものごとを楽しく豊かにとらえられる」という「人柄」まで読みとることも、あながち無理なことではないだろう。

「スイミー」の一場面に限定して〈解釈〉と〈分析〉を見てみましたが、いずれも大いに納得できます。「個人の生活経験」と「科学的なものさし」の両面から、教材研究を進めていきたいものです。

まえがき
Ⅰ レオ・レオニ作品の特質
 1 絵本作家としてのレオニ
  (1)経歴
  (2)絵本を書く理由
 2 レオニの絵本—小さなものが主人公—
 3 作品のテーマ
  (1)寓意性と教訓性
  (2)自分とは何か—自己認識の問題—
 4 構成と文体
  (1)構成
  (2)文体
Ⅱ 「スイミー」の本文と主題をめぐる問題
 1 絵本と教科書の本文のちがい
  (1)語り口(文末)の改変—「〜してる」と「〜している」—
  (2)助詞の補充
  (3)接続詞の省略
  (4)文の順序変更・追加
  (5)句読点・区切り符号
 2 絵本の教科書教材化にともなう問題
 3 「スイミー」の主題をめぐる問題
Ⅲ 〈解釈〉と〈分析〉とは何か
 1 〈解釈〉と〈分析〉の概要
 2 〈解釈〉と〈分析〉の実際
Ⅳ 「スイミー」の〈解釈〉
 1 題材についての〈前理解〉
 2 「教材の核」をめぐる〈解釈〉
  (1)「教材の核」とは何か
  (2)〈おもしろいものを見るたびに〉の〈解釈〉
  (3)〈ぼくが、目になろう〉の〈解釈〉
 3 鳥山敏子氏の授業における〈解釈〉
  (1)鳥山敏子氏の考え方
  (2)〈スイミーはおよいだ、くらい海のそこを〉の〈解釈〉
  (3)〈けれど、海には、すばらしいものがいっぱいあった〉の〈解釈〉
  (4)〈うなぎ。顔を見るころには、しっぽをわすれているほどながい〉の〈解釈〉
  (5)〈みんなが、一ぴきの大きな魚みたいにおよげるようになったとき〉の〈解釈〉
  (6)まとめ—「スイミー」をより豊かに深く読むために—
Ⅴ 「スイミー」の〈分析〉
 1 「対比」の〈分析〉
  (1)「分析批評」による「対比」の〈分析〉
  (2)「西郷文芸学」による「対比」の〈分析〉
  (3)まとめ—「対比」という〈分析コード〉の有効性—
 2 「比喩」の〈分析〉
  (1)「比喩」と「視点」
  (2)「直喩」
  (3)「暗喩」
  (4)「誇張法」
 3 「語り口」の〈分析〉
  (1)「常体」
  (2)「倒置法」
  (3)「体言止め」
  (4)まとめ—さまざまな表現技法の複合効果—
 4 「反復表現(主要語句)」の〈分析〉
 5 「列叙法」の〈分析〉
  (1)「列挙法」
  (2)「漸増法」
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』 [書籍]


「ごんぎつね」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

「ごんぎつね」の「解釈」と「分析」 (国語教材研究の革新)

  • 作者: 鶴田 清司
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1993/09
  • メディア: 単行本


以下、「まえがき」の冒頭部分です。

 私はこれまで『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書)、『文学教材で何を教えるか〜文学教育の新しい流れ〜』(学事出版)、『国語教材研究の革新』(明治図書)という一連の著作の中で、〈解釈〉と〈分析〉という二つの方法を提案してきた。それは広い意味では認識の方法(ものの見方・考え方・わかり方)である。そこには、文学をどのように考えるか、文学の読みをどのように考えるか、文学の授業をどのように見るかといった根源的な問題から、一つの作品をどのように理解するかという実際的な問題に至るまで多様な問題が含まれている。
 しかし、私はその範囲を限定して、主に教材研究の方法というレベルで〈解釈〉と〈分析〉について論じてきた。国語の授業をどう組み立てるかというとき、何よりも教師がその教材をどう読むかということが重要になってくるからである。こうして〈教材解釈〉と〈教材分析〉という二つの概念が設定されたのである。

〈教材解釈〉と〈教材分析〉については、次のように定義されています。

 〈教材解釈〉……主観的・個人的な生活経験の中で形成されてきた暗黙的な〈前理解〉に基づいて行われる理解(読み)の方法。自分自身の知識・感覚・感情・価値観・道徳・興味・関心・問題意識などを総動員しつつ、生身の人間として教材と〈対話〉することによって新しい意味を発見していくという開放的(出会いによって読者の地平が広がる)・一回的(その時かぎりの)・歴史的な(その時代・時期に固有の)読み。〈前理解〉の変化・更新によって読者自身の新しい自己理解も得られる。
 〈教材分析〉……客観的・科学的に確立された公的・明示的な規準(分析コード)に依拠して行われる理解の方法。文章(教材)を分析するための武器・道具(ものさし)を使って、それを対象に適用していくことによって新しい意味を発見していくという外挿的(外から枠をはめる)・普遍的(いつでも使える)・非−歴史的な(いつの時代にも変わらない)読み。〈分析コード〉によって対象を演繹的に説明するため、それが変化・更新することはほとんどない。
 平たく言えば、〈解釈〉とは個人の生活経験に基づく読み方であり、〈分析〉とは科学的なものさしに基づく読み方である。

このような前提を踏まえて、鶴田さんは「ごんぎつね」の教材研究を進めています。

たとえば、最後の場面の〈解釈〉については、甲斐睦朗さん・向山洋一さん・大森修さんの先行文献を踏まえながら、次の例を挙げています。

 先の甲斐氏の〈解釈〉と同様、この「またいたずらをされたのではないか」という〈兵十〉の心情を〈解釈〉することは「ごんぎつね」の読みにおいてきわめて重要である。向山氏も指摘しているように、そのときの〈兵十〉は「ごんのことは眼中になかった」という点が、この作品の主題を強調するとともに、その悲劇性を高めているからである。それまでの両者の心の断絶・疎隔が、〈ごん〉よりも〈家の中〉の様子の方に関心を持つという厳然たる事実——〈ごん〉を〈ぬすっとぎつね〉と見ていた〈兵十〉にしてみれば当然の行為であるが——に象徴的に示されているのである。
 したがって、この〈解釈〉は作品の本質(教材全体の核)に迫っていくだけの鋭さを持つものとして学ぶべきである。

一方、〈分析〉については、次の「イメージの対比」が示されています。

 特に、〈兵十〉のせりふ(心内語)に注目すると、〈ごん〉に対する見方の変化がよくわかる。読者は〈兵十〉のイメージ(人物像)が銃撃の前と後では大きく変わっていくのである。

 A こないだ、うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。

 B ごん、お前だったのか、いつも、くりをくれたのは。

 このように比較してみると、まず〈ごん〉に対する呼称のちがいが目につく。Aは〈ごんぎつねめ〉という敵意・憎悪に満ちた呼称であり、Bは〈ごん〉という親近感を込めた呼称である。もともと「ごんぎつね」の話者は、〈ごん〉という愛称を用いながら、〈ごん〉に寄り添い重なる形で作品を語ってきた。この話者は〈ごん〉の立場から、〈ごん〉の身になって、〈ごん〉に同化・共感しつつ語り進めてきたのである。〈ごん〉は愛すべき存在として描かれている。Bは、最後の場面にきて〈兵十〉もようやく〈ごん〉を理解することができたということ、話者と同じような地点に立つことができたということを表している。Bのせりふ(呼称)に見られる〈兵十〉のイメージとそれに〈ぐったりと目をつぶったまま〉うなずいた〈ごん〉のイメージは一瞬の「魂の流通共鳴」を暗示するものと言えよう。

「ごんぎつね」の最後の場面に限定して〈解釈〉と〈分析〉を見てみましたが、いずれも大いに納得できます。「個人の生活経験」と「科学的なものさし」の両面から、教材研究を進めていきたいものです。

まえがき
Ⅰ 新美南吉作品の特質
 1 南吉文学の郷土性
 2 南吉文学のテーマ
Ⅱ 「ごんぎつね」の教材研究史における問題
 1 「ごんぎつね」の本文をめぐって
 2 「ごんぎつね」の悲劇の原因をめぐって
Ⅲ 〈解釈〉と〈分析〉とは何か
 1 〈解釈〉と〈分析〉の概要
 2 〈解釈〉と〈分析〉の実際
Ⅳ 「ごんぎつね」の〈解釈〉
 1 現代の子どもと「ごんぎつね」の世界
 2 「教材の核」をめぐる〈解釈〉
Ⅴ 「ごんぎつね」の〈分析〉
 1 「視点」の〈分析〉
 2 「対比」の〈分析〉
 3 「オノマトペ」の〈分析〉
 4 「反復表現(主要語句)」の〈分析〉
 5 「時間」の〈分析〉
 6 「語り口」の〈分析〉
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』 [書籍]


文学教育における解釈と分析 (授業への挑戦 37)

文学教育における解釈と分析 (授業への挑戦 37)

  • 作者: 鶴田 清司
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1988/10
  • メディア: 単行本


「解釈」と「分析」の違いは何か。本書の著者である鶴田清司さんは序章において、ひとまず向山洋一さんによる区別を次のようにまとめています。

解釈……作品の内側に自己を没入させることによって、作品が言おうとしていることを理解し、感動を深めていくこと。
分析……作品の表現を、外側からの「分析視点」、即ち普遍的・科学的な「文学の構成要素」に基づいて、客観的に解明していくこと。

そして、第Ⅰ章において、〈新しい〉解釈学、つまり「作品を著者から切り離し、それを『存在が立ち現れる一つの世界を創造する』ような自律的なものと見る」理論を導入して、新たに〈解釈〉と〈分析〉という概念を設定しています。この両概念をもとに、おもに武田常夫さん・向山洋一さんの文学教育論・実践を検討し、「文学教育における〈解釈〉と〈分析〉の特徴とその違い」を明らかにしようとしています。

その結果が第Ⅲ章の最後に表で示されているのですが、その内容を見てみましょう。

教師の仕事
〈解釈〉絶えず子どもに新たな〈出会い〉を経験させるために、教材研究や発問等をするという主体的な営み。
〈分析〉最初に一定の分析用語、技術を指導した後は子どもがそれに習熟する手助けをするという定式化された営み。

〈前理解〉の扱い
〈解釈〉子どもの〈前理解〉即ち自らの生活経験における知識、感覚などを喚起し、積極的に活用。子ども自身が理解のための道具となる。〈前理解〉は変化。
〈分析〉分析のための特殊かつ固定的な道具の獲得が出発点。その外的で閉じた〈前理解〉の適用に基づく作品の読み。〈前理解〉は不変。

作品の読み
〈解釈〉テクストに書かれていないこと(人物の気持ちなど)をも考えながら読む。(作品に「参加」する)。
〈分析〉テクストに書かれていないことは問題にしない。「(人物の気持ちなどは)文章に書かれていないからわからない」。)

他者との関係
〈解釈〉他の子どもたちあるいは教師との関係においては、「地平」と「地平」との対立、葛藤など〈出会い〉という出来事が生じる。
〈分析〉各自の読みが尊重され、またそれが基本的に認められる。他の子どもから「疑問」や「批判」は出されるが、自己を揺るがすような葛藤は生じにくい。

感動の扱い
〈解釈〉授業において、作品との〈出会い〉や他の子ども、教師の解釈との〈出会い〉によって生じる(「襲われる」)感動を重視する。
〈分析〉授業において感動は問題にしない。「感動以外の部分こそ授業すべきである」。

朗読
〈解釈〉作品の解釈内容と関わって作品の朗読を重視する。
〈分析〉作品の朗読は分析の対象外であると考えられている。

作文
〈解釈〉「私は…と感じた」「私は…と思う」という形で今現在の自分自身の感想文を書く。
〈分析〉「読者に対して…の効果を与える」「この文は…という表現技術を持つ」という形で冷静かつ客観的な「評論文」を書く。

このような違いを明らかにした上で、鶴田さんは第Ⅴ章において「〈解釈〉と〈分析〉の統合をめざす教材研究」を行っています。取り上げられているのは「ごんぎつね」です。まず、最後の場面の〈解釈〉を見てみましょう。

 こうして、いよいよ最後の場面を迎える。
 それまでの〈ごん〉と〈兵十〉の疎外的な関係が、一つの事件となって顕在化する。〈ごん〉はとうとう〈兵十〉に見つかって撃たれてしまう。〈兵十〉にとっては、〈ごん〉はただの〈ぬすと狐〉にすぎない。だから、撃った後、またいたずらや盗みをされたのではないかと思って、〈家の中を見〉たのである。〈ごん〉のことなどもはや眼中にないのだ。それより家の中の様子の方が心配なのである。そこで、〈土間に栗が、かためておいてある〉のが目にとまる。以前に〈家の中へいわしを投げこんで〉いたという事実とくらべて、ここには〈ごん〉の〈兵十〉に対する思いの深まりが見られる。それは、無邪気でいじらしく、心やさしい〈ごん〉の無言の訴えであったのかもしれない。また、それは、なんとかして自分の行為に気づいてほしい、どうか自分の思いが伝わってほしいという願いのこめられた行為であったのかもしれない。ここに来て、私たち読者は、いままで以上に両者の疎隔の大きさを知らされる。
 その〈栗〉の様子に気づいた〈兵十〉は、ようやく〈ごん〉の行為と心情を理解することになる。しかし、それは既に〈ごん〉を撃ってしまった後のことだったのである。

この〈解釈〉に対して、次のような「視点の〈分析〉」が示されています。

 「ごんぎつね」の登場人物は全部で次の六人である。
 〈ごん〉、〈兵十〉、〈弥助の家内〉、〈新兵衛の家内〉、〈いわし売〉、〈加助〉
 このうち、誰に「視点」が設定されているか、つまり、「話者」がどの人物の内面にまで入りこんで語っているかという問題を考えてみる。すると、それは〈ごん〉と〈兵十〉の二人だけであることがわかる。残りの人物は、「話者」によって外側から見られているだけの人物なのである。しかも、先の西郷竹彦氏の〈分析〉にあったように、一から六の場面の途中までは、「話者」の「視点」は〈ごん〉の中またはその近くにあり、六の途中で初めて〈兵十〉に切りかわっているのである。
 このような「視点」の設定は、先に述べたこの作品の主題を効果的に表現していると言える。つまり、五の場面までで〈ごん〉の内面を手にとるように理解してきた読者は、この「視点の転換」部分に来て、初めて〈兵十〉の内面を知ることになる。このような「三人称限定視点」によって、〈ごん〉と〈兵十〉という「視点人物」の内なる真実がクローズアップされ、読者は、両者がいかに理解し合えていなかったか、その疎隔の大きさをまざまざと思い知らされることになるのである。

鶴田さんが「ごんぎつね」で提示してみせた〈解釈〉と〈分析〉の統合を、いかに文学の授業づくりにおいて実現していくか、実践者に与えられた課題かもしれません。

まえがき
序章 文学教育「研究」を問う
 一 教育用語の不明確さ
 二 本書の課題
Ⅰ 〈新しい〉解釈学理論の導入
 一 〈新しい〉解釈学とは何か
 二 〈新しい〉解釈学に着目することの意義
 三 〈国語教育解釈学理論〉との相違点
Ⅱ 〈新しい〉解釈学による〈解釈〉と〈分析〉の解明
 一 〈新しい〉解釈学の諸概念の考察
  1 〈出会い〉
  2 〈前理解〉
  3 〈解釈学的経験〉
  4 〈口頭の解釈〉
 二 〈解釈〉と〈分析〉の本質
Ⅲ 文学の授業に見る〈解釈〉と〈分析〉
 一 武田常夫氏の実践―〈解釈〉的立場―
  1 〈出会い〉の諸相
  2 授業における子どもの〈前理解〉
  3 授業における〈解釈学的経験〉
  4 〈口頭の解釈〉としての朗読
 二 向山洋一氏・法則化サークルの実践―〈分析〉的立場―
  1 〈分析〉の基本的特徴—非-〈出会い〉・非-〈経験〉—
  2 授業における子どもの〈前理解〉
  3 授業における音読
 三 補論
  1 まとめ
  2 武田氏と向山氏の接点
  3 教材研究・授業レベルでの〈解釈〉と〈分析〉の違い
Ⅳ 〈分析〉的立場の位相―西郷竹彦氏の文芸教育理論と実践―
 一 〈分析〉的立場としての西郷文芸教育論
 二 西郷文芸教育論における「視点論」の検討
  1 事例研究—「三日月」(松谷みよ子)の授業の検討—
  2 「視点論」の限界—脱「視点論」による「教育的な意味」—
  3 「視点論」の意義
Ⅴ 〈解釈〉と〈分析〉の統合をめざす教材研究—「ごんぎつね」(新美南吉)をめぐって—
 一 これまでの〈教材解釈〉と〈教材分析〉に学ぶ
  1 結末部分(六の場面)の〈解釈〉について
  2 視点の〈分析〉について
 二 「ごんぎつね」の教材研究
  1 教材の〈解釈〉と〈分析〉
  2 授業のねらい
  3 全体の指導計画
  4 本時(第八時)の目標
  5 本時(第八時)の展開計画
終章 文学教育研究の発展のために—〈解釈〉と〈分析〉を区別することの意義は何か—
 一 文学の授業では何を教えることができるのか
 二 文学の授業では何が「追試」できるのか
 三 文学の授業で「討論」はいかにして成立するか
 四 文学の授業における教師の役割は何か
 五 文学の授業がめざすものは何か
あとがき
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

『ゲームで身につく学習スキル 中学校』 [書籍]


ゲームで身につく学習スキル 中学校―問題解決力を育てる授業プラン27

ゲームで身につく学習スキル 中学校―問題解決力を育てる授業プラン27

  • 作者: 上條 晴夫
  • 出版社/メーカー: 図書文化社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本


編者の一人である進藤聡彦さんは「学習スキルって何だろう」において、学習スキルを「一定の範囲の学習活動に役立つ内的、外的な技能」と定義しています。内的スキルとは「頭の中だけの操作・活動」、たとえば「歴史事項をストーリーとして覚える」などです。外的スキルとは「行動レベルの操作・活動」、たとえば「ノートのとり方、質問の仕方」などです。

もう一人の編者、上條晴夫さんは「これから必要な学習スキルとは」において、内的スキルを「覚えるスキル」と呼んでいます。そして、これからは「覚えるスキル」だけではなく「考えるスキル」が必要になると主張しています。この「考えるスキル」が「外的スキル」にあたると言えそうです。

このように「学習スキル」を幅広くとらえた上で、本書では次の七つのスキルがリストアップされています。

1 問題を見つけるスキル
2 聴く・読むスキル
3 調べる・整理するスキル
4 吟味・検討するスキル
5 まとめる・書くスキル
6 覚えるスキル
7 表現する・伝えるスキル

たとえば「問題を見つけるスキル」の実践に対して、進藤さんが次のガイドを書いています。

 この章で取り上げるのは「問題を見つける」ための学習スキルである。最初の「発想ゲーム」は作文などで「何も書くことがない」「何を書いていいのかわからない」といった悩みから生徒を解放するのに役立つ学習スキルだ。書き慣れないと大人でも400字詰め2枚ぐらいでさえ原稿用紙を埋めるのは大変な作業だ。しかし、本当に書くことがないのかというとそうではない。いろいろあるはずなのに、思い浮かばないだけのことが多い。私たちの頭の中には関連する知識間のネットワークができていると考えられている。「発想ゲーム」のように与えられたテーマから連想する言葉をたくさん書かせることによって、それまで思い浮かばなかったテーマに関連する経験なども頭の中のネットワークから引き出される。そうした経験などを中心に論を構成すれば、原稿用紙はすぐに埋まってしまうだろうから、書くことを厭わなくもなる。

本書で提案されている「問題解決力を育てる授業プラン27」それぞれに上記のようなガイドが示されているので、学習ゲームという「教材」と学習スキルという「教育内容」をつなぐヒントになります。

上條さんは「学習スキルゲームのつくりかた」において、学習スキルゲームづくりは「下からの道」(教材から教育内容へ)すなわち「はじめにゲームありき」と述べています。(藤岡信勝著『教材づくりの発想』日本書籍)一方、「授業スキル」に対して、上條さんは「教材・教授行為」レベルで位置づけていました。(『学級タイプ別 繰り返し学習のアイデア 小学校編』図書文化社)「授業スキル」と「学習スキル」の関係も意識しながら、各実践を見ていく必要がありそうです。

まえがき
序章 学習スキルと学習ゲーム
 学習スキルって何だろう
 これから必要な学習スキルとは
 なぜ、学習スキルを学習ゲームで学ぶのか?
 学習スキルゲームのつくりかた
 学習スキルゲームのすすめかた
第1章 問題を見つけるスキル
 番号作文コンテスト
 箇条書きマラソン
 マインドマップゲーム
 反論スピーチコンテスト
第2章 聴く・読むスキル
 隠し言葉当てゲーム
 嫌いな食べ物当てクイズ
 リピートスピーチゲーム
 3分間音読コンクール
第3章 調べる・整理するスキル
 グループ対抗辞書速引き競争
 図鑑生き物探しゲーム
 漢字変換ゲーム
 漢字リレーゲーム
 辞書ゲーム
第4章 吟味・検討するスキル
 分類図形当てゲーム
 ○○時代スリーキーワードゲーム
 「重なっちゃだめ!」ゲーム
 こじつけ共通点ゲーム
 ネゴシエーターゲーム
第5章 まとめる・書くスキル
 共同記者会見ゲーム
 鉛筆対談ゲーム
 反論作文競争
第6章 覚えるスキル
 国旗ビンゴゲーム
 都道府県スリークエスチョンゲーム
 漢字算数バトル
第7章 表現する・伝えるスキル
 他己紹介ゲーム
 ザ・新語ゲーム
学習スキルゲームのネタシート
学習スキルゲーム相談シート
あとがき
編集者・執筆者紹介

まえがき
序章 学習スキルと学習ゲーム
 学習スキルって何だろう
 これから必要な学習スキルとは
 なぜ、学習スキルを学習ゲームで学ぶのか?
 学習スキルゲームのつくりかた
 学習スキルゲームのすすめかた
第1章 問題を見つけるスキル
 発想ゲーム
 箇条書きマラソン
 とにかく多い方が勝ち!
第2章 聴く・読むスキル
 歌詞穴埋めゲーム
 質問力ゲーム
 質問紹介ゲーム
 指令を推理!聴き方ゲーム
 音読リレー
第3章 調べる・整理するスキル
 ホームページ検索ゲーム
 おもしろ例文コンテスト
 グループ別対抗辞書速引き競争
 国旗カルタ5・7・5下の句バトル
第4章 吟味・検討するスキル
 数字当てゲーム
 あるなしクイズ必勝法!
 占い欄で雑誌当てゲーム
 It's Guilty!? 罪になるの?
第5章 まとめる・書くスキル
 鉛筆対談ゲーム
 校内掲示物に突っ込み!ゲーム
 コピー作文コンペ
第6章 覚えるスキル
 歌詞を間違えずに歌えたら勝ちゲーム
 記憶力ゲーム
 速記記憶ゲーム
第7章 表現する・伝えるスキル
 絵図口頭伝達ゲーム
 売り込め!ショッピングコンテスト
 オノマトペゲーム
 声かけのレッスンゲーム
 グループ音読トーナメント
学習スキルゲームのネタシート
学習スキルゲーム相談シート
あとがき
編集者・執筆者紹介
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校
メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。